戦後70年「あの戦争」とは 日本近現代史究・加藤陽子さん(2015.8.6)

◆(戦後70年)「あの戦争」とは 日本の近現代史を研究する歴史家・加藤陽子さん(朝日)
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 ■神の国の「皇土防衛」のために、日本の周辺部で戦争■

村山談話(1995年)は『わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ……』と述べています。問題の核心は“残虐な死”が多発したこと――国家の中心部を守るために(敵前方である)周縁部で戦う――そんな軍の防衛思想を国民に強いた戦争。

②戦場にされた周縁部とは、満州中国東北部)を含む中国やビルマ、千島列島、フィリピン、太平洋の中部や西部の島々など。戦争終盤、指導部によって放棄された戦線で兵士の大半が餓死を強いられたり、現地に住んでいた日本国民が自国軍に置き去りにされて死傷したりする事態が相次ぎました。

戦没者310万人のうち実に240万人が『海外』で死亡した。それが先の大戦の実像でした。日本は、個々の兵士の死に場所や死に方を遺族に伝えることさえできなかった国なのです。

④日本は『神の国』であり、帝国の中心に『本土』がありました。戦争終盤には『皇土』とも呼ばれます。軍部は『代々の天皇が国を治めてきた』という歴史上の理念の擁護者を自認しており、本土そのものの防備を完璧にするより外縁部で守ろうとしました。沖縄もまた周縁部だったのです。

 ■日清・日露戦争の英霊の死を無駄にするな■

⑤勝算のない対米戦争を回避できなかった背景には、様々な要素がありますが、最終的には「中国問題」が要因となって対米開戦に踏み切った。日本は満州事変(31年)で中国内部に満州国を樹立しました。米国から見ればそれは、日本が中国での権益を独占しようとする行動に見えたのです。

⑥最終的に米政府は41年、日本に中国からの撤兵などを求めるに至ります。日本が対米開戦を回避するためには、妥協が必要でした。しかし日本にとって満州は『譲れない条件』になってしまっていたのです」

➆背景には、満州日清戦争(1894〜95年)と日露戦争(1904〜05年)で血を流して獲得したものだという考えがありました。「英霊の死を無駄にするな」という主張が力をふるったのです。

 ■それは典型的な侵略戦争だった■

⑧加えて、中国に対する過小評価もありました。西欧化した日本が中国のためにロシアから満州を奪還した、とする自己中心的な見方です。満州は日本のものであるとの歴史観が『この国のかたち』になったのでしょう。独占をあきらめて自由な貿易に道を開く妥協への道は閉ざされました。

満州事変は日本軍の謀略に基づく侵略。37年からの日中戦争も戦闘本格化以降は侵略。真珠湾奇襲も侵略。2005年世論調査(読売新聞)によれば、日中戦争を日本の侵略だったとする人は68%。侵略ではなかったという積極的な否定論は10%に過ぎません。

 ■最終局面でも愚かな一撃講和論■

⑩敗戦の約1年前、44年の7月には、自ら「絶対国防圏」と定めたサイパン島が米軍の手に落ちました。しかし、指導層は『どこかで敵に一撃を加えることによって講和の条件を少しでも有利にしよう』(一撃講和論)と考えたから、敗戦が確定的になったあとも戦争を終えられなかった。

⑪今から見れば、当時の日本軍には『有効な一撃』を放てる態勢はありませんでした。唯一の『勝てる方式』と自認していた『精鋭による短期決戦での勝利』の可能性がすでに消え、戦争は、勝てないと分かっていた。『長期の持久戦』へ移行していたからです。

⑫戦局を合理的な見極めが出来なかった原因は、日露戦争がぎりぎりの辛勝だった事実を隠すために、戦史を正確に編纂できず、戦争を美談にする国になっていたからです。

⑬最終局面で、徹底抗戦を呼号した軍部にとって、守るべき『本土』とは『国体』を意味していました。万世一系天皇が君臨し統治権を総攬すること、つまり天皇制です。

 ■戦争責任■

朝日新聞が今年春に行った世論調査では、日本がなぜ戦争をしたのか『自ら追及し解明する努力を十分にしてきたと思うか』という問いに、『まだ不十分だ』と答えた人が65%もいました。『まだ分からない、もっと追及するべきだ』が国民の意思。

⑮中国大陸で戦争をしていると思っていたのに、ハワイ奇襲攻撃。気づくと、日本軍はビルマでも太平洋西部のトラック島でも千島列島でも戦っていた。『こんなに広い領域に軍を展開させ、こんなに多くの国を敵とする戦争を、私たちはいつ始めたのか』。当惑するしかないような不可視感があったのです。

⑯降伏直後の45年秋に幣原喜重郎内閣が、大東亜戦争調査会を設置し『後世国民を反省せしめ納得せしむる』記録を残そうとしましたが、後に連合国側の意向で中止させられました。共産主義を敵視する冷戦が始まっていたからです。日本は歴史を正視する記録と反省の機会を失ったのです。

 ■国民は国家に利用される存在ではない■

⑰新しい憲法は「日本人と戦争の関係」を変えたと思います。たとえば、戦争中に『残虐な死』が大量に生み出されたのは、『すべての個人の生』を国家に捧げるよう国民に要請する時代だったからです。

⑱戦後の憲法は『基本的人権の尊重』を明確に定めている。国民はもはや国家に利用されるだけの存在ではなく、国家に対してそれぞれの『個』の存在が確保される形に変わっています。

⑲国民である以上、戦争の苦悩は受忍すべきだ――そんな考えは現憲法の認めるものではありません。

*かとうようこ 60年生まれ。東大教授。「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」「徴兵制と近代日本」「満州事変から日中戦争へ」(岩浪新書シリーズ日本近現代史⑤)など戦争に関する著書で知られる。

 ■取材を終えて
満州事変は侵略だった――。安倍晋三首相が近く発表する戦後70年談話から「(日本の)植民地支配と侵略」についての「反省」と「お詫び」が削除されれば、国際社会への負のメッセージになりかねない。加藤陽子さんの言葉からは、歴史研究者としての責務を果たそうとする意志が伝わってきた。